相良清兵衛頼兄(さがらせいべえよりもり)のお墓
あさぎり町岡原南岡麓の諏訪神社(岡本城跡)の鳥居のそばには3基の墓碑がありその1基に「天(てん)金本(きんほん)然(ねん)居士(こじ)」と刻まれた墓石があります。このお墓が相良清兵衛頼兄(清兵衛どん)の墓で、平成15年8月に求麻郷土研究会によって確認されました。
清兵衛どんは相良家の家老を務め、関ヶ原の戦いでは、その智謀により相良家安泰に導きお家存続に大きな貢献をした人で、相良七百年で奇才と豪胆とを持ち合わせた無比の人傑といわれています。寛永十三年(1636)、清兵衛どんは68才になり岡麓の城にりっぱな隠居所を造りましたが、人吉から裕福な町人を移住させたことで、人吉の町家はさびれてしまいました。藩主の相良頼寛公も手におえない状態となっていて成敗したいと考えていました。しかし徳川家康にお目見えした人であり、下手をするとお家取り潰しになりかねないほどでした。でも、ついに頼寛公は清兵衛どんの横暴を「清兵衛私曲十三ヶ條」にしたためて幕府に訴えました。
寛永十七年(1640)、幕府評定所で裁判が行われました。その結果、清兵衛どんは弁明通らず津軽藩弘前に流罪となりました。岡麓での生活は4年間で、弘前にて88才で亡くなりました。