20日、背には「平和」の校章、襟には「凡事徹底」と書かれたはっぴ姿で神輿を担ぎ町中を練り歩く様子を後ろから眺めながら、多良木えびす祭の神輿渡御出発式で、主催者代表が「歴史と文化を伝えます」と挨拶された言葉の意味が伝わって欲しいと願って歩いた。下向きで、指先を横に動かす姿を見慣れたせいか、笑顔で空を見上げ「セイヤ・セイヤ」の掛け声で神輿を担ぐ姿がとても若々しくて頼もしく感じた。そんな折、今日は新聞週間。16日の新聞に、中学生作家、鈴木るりかさんが特集「新聞を語る」の記事で、『まず一面に目を通し、いま何が問題になっているのか、世の中の動きを見る。次にテレビ欄、社会面。隅の小さな事件記事も、小説を書く上で引っかかりがあるので見過ごせない。なぜ犯人はこんなことをしたのか、事件の前後を想像しながら読む。私の小説には、新聞を読んでいなければ書けない話、出てこなかった表現というのがある』そして、『大きな新聞を広げる行為、紙の手触りなんかも好き。新聞を読んでいる自分に、どこか誇らしさを感じる。祖父が毎朝すごく熱心に新聞を読んでいた。その姿にあこがれていたんだと思う』と述べていた。また昨日読んだ、曽野綾子さん著書の「人間の基本」の中に、「私にとって新聞は読むのはほんとうに楽しみです。椅子に座って大きな紙面を広げ、それぞれ編集された紙面を見ながら、その中で何が重要かそうでないか、自分で考えて選ぶわけですからね。テレビには自分の選択がなく、あてがい扶持の情報を受けるだけですが、新聞を読むことはさまざまなことを考えたり、書くものを考えたりできます。」と書かれていた。
作家は伝えるために、常日ごろから記事の前後を想像しながら読み、その中で何が重要かそうでないか選ぶなど、読みのトレーニングを続けていることに気づいた。さて、伝い受ける側はどうなのか。「訳が分からん」、「面倒くさい」の言葉がとても気にかかる。