西郷隆盛が西南の役で官軍に敗れ、延岡から故郷の城山へ敗走する道中、九州山地を通って西米良から下槻木の大師に到着したのが明治10年8月27日でした。ところが前日の台風の影響で川が氾濫し橋が流され須木村(現・小林市)に行くことが出来ませんでした。そこで西郷は当時槻木に多かった欅の大木を伐採して橋を造りました。この時西郷軍は20名程でしたが食料が無く水をがぶ飲みして歩行していた為力が出ませんでした。地元民が牛を殺して寛大な接待をして厚く遇しをしたそうです。西郷は地元民の心情に感謝し、涙を流して御礼を言って這うようにして橋を渡ったそうです。その時の姿が降伏の格好に見え西郷降参橋と呼ぶようになったそうです。渡り終ったら官軍の追撃をかわすため、橋をこわして行こうとの話がありましたが、遇しのお礼と、地元民の不便を思いそのままにして行ったそうです。降参橋は昭和初期まであったそうですが、その後吊り橋に架け替えられ、現在はこれより下流1キロ程に、新西郷橋としてコンクリート造の橋に建替えられ小林市に通じる間道になっています。
昔、西郷橋は大師の綾北川(槻木川)のこの付近に架けてありました。
新西郷橋
西郷さんが通ったと思われる、現在の里道
※文化財ではありませんが、地域に伝承されるものを紹介しました。
※西郷どんの放送によって、鹿児島はもちろん多数の放送局や、取材当日にも芦北町から夫婦で新
西郷橋や西郷橋跡を訪ねてこられるなど、一般の西郷どんファンも訪れるようになったそうです。