あさぎり町岡原字切畑にあるお堂の中に「平 景清(たいらのかげきよ)息女の墓」があります。その墓の碑銘には、「博聞上古景清將息女之廟此所也、享保七年三月十二日」と刻んであります。これは、江戸時代の享保七年(1722)に、この村の庄屋であった那須甚七さんが、景清息女の墓と聞き伝えていることから彼女を偲んで建てたお墓です。息女の名前は「人丸姫」と言われていますが、「嬢景清八嶋日記」では「糸滝」と言う名前が使われています。
あさぎり町岡原字切畑にあるお堂の中に「平 景清(たいらのかげきよ)息女の墓」があります。その墓の碑銘には、「博聞上古景清將息女之廟此所也、享保七年三月十二日」と刻んであります。これは、江戸時代の享保七年(1722)に、この村の庄屋であった那須甚七さんが、景清息女の墓と聞き伝えていることから彼女を偲んで建てたお墓です。息女の名前は「人丸姫」と言われていますが、「嬢景清八嶋日記」では「糸滝」と言う名前が使われています。