幸野溝旧堰普請記念碑(湯前町指定文化財)
江戸時代の初め、全国的な新田開発のため、用水路工事が盛んに行われ、球磨郡では百太郎溝工事が進んでいました。そして湯前村と久米村周辺の荒地を開田する目的で計画されたのが幸野溝です。22代藩主、相良頼喬公の命により高橋政重が中心となって、元禄九年(1696)に開削が始まりました。水路を掘る工事は1・2年でほぼ完成しましたが、堰の工事は難航し、大洪水で2度も流されてしまいました。工事費用も無くなり、政重は11面観音像を背負い村々を歩いて、資金集めを始めました。工事は再開し宝永二年(1705)に完成しました。工事開始から10年目のことでした。堰があった土地の名前をとって「幸野溝」と名付けられました。