猫寺伝説
生善院(通称 猫寺)
天正十年(1582)相良藩への謀むほん反を企くわだてているという嘘の訴えにより、湯ゆやまさどのかみむねまさ山佐渡守宗昌とその弟で普ふもんじ門寺の盛せいよほういん誉法印が殺されることになった。その話を聞いた宗昌は日向へ逃げたが、寺に残った法印は殺され、寺も焼かれてしまう。
無実でありながらわが子を殺された法印の母、玖くげつぜんにょ月善女は愛あいびょうたまたれ猫玉垂を連れて市房神社に参さんろう籠し、自分の指をかみ切ってその血を神像に塗り付け、玉垂にもなめさせて、末代までも怨おんりょう霊になって相良藩にたたるように言いふくめ、茂もま間が崎さきというところに身を投げて死んでしまう。すると相良藩では、猫の怨霊が美女や夜やしゃ叉に化けて藩主の枕まくらもと許に立つなど、奇ききかいかい々怪々なことが次々に起きた。
藩では霊を鎮めるために普門寺跡に千せんこうざん光山生善院と名づけて寺を建立。現在の本堂も観音堂も、その時に建てられたものです。法印の命日である3月16日に、藩民に市房神社と生善院に参詣するように命じ、藩主自身もそうしだしたので、怨霊のたたりは鎮まったと伝えられています。
猫寺騒動の後、普門寺は湯前に移されたが、怨霊の祟りがおさまらないために、消失した普門寺跡に「生善院」を建立。本尊の千手観音は、相良藩を恨んで亡くなった玖くげつぜんにょ月善女の影仏として京都の仏師によって彫られました。